ショートエッセイ

稲城生まれの作者の原体験ともいうべき『稲城村の頃』

稲城村の頃 (1)

 昭和十年頃、小学一年国語はサイタサイタサクラガサイタではじまった。
 その頃の稲城は教科書通りの純農村で、森羅万象自然が溢れかえっていた。
 役場は今の商工会の建物で内容はかわったが外形はそのままである。南武線、稲城長沼から役場に至る道の両側は数軒に満たない農家と水田と桑畑だった。それでも、たまには自動車の通るメインストリートで「かどや道」とよんでいた。
 かたわらの青渭神社で遊んでいると黒塗りの箱型の自動車が通る。子供達は一斉に「アッ!動員の車だ」と叫ぶ。箱自動車は召集令状をもった伝令車だったのである。しばらくすると召集された家の噂が広がった。
 青渭神社は今と全然異って樹木がうっ蒼として、昼なお暗い境内に木造の古びたさや堂の屋根がやや傾いていた。
 今は欅が一本長い年輪を刻んで満身創痍で立っているが、五十年前は太い老松が何本も天に向かってテイテイとそびえていたし、杉の木もあった。つぎつぎと切られる境内の明るさに比べ、私の心は重く悲しいものになって行った。

稲城村の頃 (2)

 天地自然の摂理は今も昔もかわらない。
 三月になると山肌は絹の産毛につつまれた新芽が朝の光をあびて全山銀色に輝く。
 旬日もすると淡い萌黄色にかわって行く。
 桜が散って四月も終りに近づくと多摩丘陵の緑はぐんと色をます。新緑、深緑と雨にぬれた幹の黒のコントラストは、いかにも似合う。気候も日本ならではの温暖となる。
 五十年前のこの頃、見える限りは麦畑と梨畑であった。梨畑のことを地元では梨山とよぶ。
 小学校の帰り道、麦畑に入りあちこちにある黒い穂を抜きとる。下部は白い円筒になっている。それを千切って潰して吹くと音がでる。麦笛は長短や太さによって音色がかわる。一緒に口にくわえて、鳴らしながら家に帰った。麦は大麦で一般農家では白米と混ぜて炊いた。「ひき割りめし」と呼び、赤飯や白米は、物日や田植時でないと出なかった。米は年貢や、戦時中の供出米として出された。

稲城村の頃 (3)

 夏の暑い日ざかりの午後、多摩川に向って歩く。顔から脇から汗が吹き出す。十五分くらいして堤防に上る。
 緑の葉のすき間に朱色の野いちごが顔をのぞかす。二、三個とって口にほおりこむ、色のわりには酸っぱい。
 あちこちでキリギリスが鳴いている。そっと近づいて羽根をつまむやいなや振りむきざま、人の指にかみつく、その痛いといったらない。押立北の神社裏、天神下につく。ここが子供の遊泳場である。
 川辺に立って下を見る。水深は背たけの何倍もあるのに、青く澄んで底まで見える。川底で鮎が時折キラリと反転する。下までもぐって、はうように泳ぎ目を開けて見る。もくもくもくと砂を押しあげながら水が湧き出している。手をかざすと冷たい。
 昭和十五、六年頃、日本は戦争のまっただ中、自然はたっぷりあったが、若者はいなかった。

稲城村の頃 (4)

 牧歌的な稲城村の頃に郷愁と感傷を覚えるのだが昭和十八年十二月一日戦時の学校は緊迫していた。十三才時の日記を見る。
 一日、きょうは防災日である。デーというのは英語なので改正され、日となった。避難訓練中、5kg油脂焼夷弾の燃焼実演を間のあたりに見た。1m2の油は天をも焦すほど真っ黒く渦をまいて上った。
 三日、尾崎先生の送行会、先生は二度目の応召である。先に前田先生をお送りし、今また尾崎先生をお送りする。
 九日、きょうの授業は朝からぶっ通しで農業である。
 十日、午後一時、矢野口無言の凱旋者、陸軍兵長石黒さんの英霊を迎え、お送りした。
 十二日、朝日新聞社主催の少国民総決起大会に参加のため四時半起床、ズボン、ゲートル新しい地下足袋、雑のうに二食分の弁当を入れ肩にかけ水筒には水を一杯入れて出発した。殆ど勉強はなかった。

稲城村の頃 (5)

 若い世代にとって、五十年後といえば気の遠くなるような先の話であろうが、六十余年を生きた者にとっては、長かった歳月の実感に乏しい。
 待ち遠しかった正月休みが、あっという間に過ぎ去るように、何十年の年月も束の間に過ぎ去って行ったのが実感なのだ。
 しかし稲城はその間も着実に変貌をとげてきた。当時の川崎街道は人影は少なく、車もない。まっすぐ伸びた砂利道と左右の田園風景は今日から想像の出来ない世界である。
 大戦中は、多摩弾薬庫の原材料を運ぶトラックが砂塵をけたてて走っていた。雑草のおい茂った道の両側に電柱が続き風が吹くと鳴った。子供等は耳をあてて驚いた。谷内六郎の絵の世界であった。

稲城村の頃(6)

 竹林や杉、雑木がおい茂り、曲りくねった急坂を息を切らしてのぼりつめると、視界が開けて百村、妙見宮裏の畑につく、あぜに朱色のボケが咲いている。耳をすますと小鳥のさえずり、梢吹く風の音はもの哀しい。山すそから横笛の音が風にのってくる。
“煙も見えず雲もなく、風もおこらず波立たず”  国のために戦い死んで行った勇士をたたえる悲しい旋律が胸に痛い。
 この頃人影の少ない広々とした山野を動物たちはわがもの顔に走りまわっていた。そして終の住家を妙見寺山門天井裏に求めるのもいた。
 私は今まだ残る百村の自然がいとおしい。残したい。
 それはいつかきっと稲城の宝の山になるだろうから。

稲城村の頃 (7)

お百度参り
 神社の境内で遊んでいると、時折拝殿から狛犬の所まで往復している人を見かけた。初老の少し髪の白い女の人で、かすりの着物にモンペをはいていた。拝んでは戻り、戻っては拝んでいた。わき目もふらず一心不乱のようすは、子供心にも近寄りがたいものがあった。それがお百度参りという信仰であることは大体知っていたが、くわしい事はわからなかった。
 医療施設の乏しい昔、家族に病人が発生し長びきでもしたら神仏に頼る以外はなかった。一回百度それを三、七、二十一日繰り返し参詣し最終日を満願の日とした。そのことは病人には知らせないが願いの通じることもあった。病人への思いはエスカレートして丑満時つまり午前二時にお参りすればさらに霊験あらたかだと信じられていた。
 思いが通じて病人が快癒した時祈願した人はどんなに嬉しかったろう。

稲城村の頃 (8)

藁人形
 五十年程前、青渭神社鞘堂の修理から帰った父親が藁人形があったと話した。
 丑の刻(今の午前二時)古木に囲まれた境内は漆黒の闇、聳え立った欅のいただきでコノハズクが「ホーホー」と不気味になく。
 そこへ一人の女が辺りを気遣いながら音もなく現われる。目は血走り、瞋恚の炎と燃えてるようすがありありとわかる。誰を祈り殺そうとしているのか藁人形をしっかりもっている。
 口にカミソリをくわえ、灯った三本のろうそくを鉢巻で支え白装束である。神社裏の立木に人形を釘で「コンコン、コン」と打ちつけるやいなや成就を神に祈念して素早く立ち去る。
 私の想像の丑の刻参りである。穴沢天神でも例はあった。平凡な田園風景の稲城だが、裏にまわれば、ドロドロした人間関係が渦を巻いていた。

稲城村の頃(9)

 五十有余年前、稲城第一小学校の徽章は稲穂に囲まれたトンボが中心でキの字になっており、イナギと読ませた。丸型のもので買いたては山吹色が美しかったが、子供心にかっこ悪く好きでなかった。
 稲城にはまた、昔、合戦の折、稲藁で囲いを作り戦った出城の意味もある。
 いずれにしても稲城は城下町、門前町、宿場町といった殷賑をきわめたことのない自然発生的な農村であったことにかわりない。従って歴史的な文化の特徴が少なく町おこしの泣き所でもある。
 しかし取りまく自然環境には胸が張れる。
 今年も水不足に嘆くことはなかった。マイナス30度に、軒下まで積もる雪に、台風の通り道に右往左往することもなかった。厳しい自然からは守られているのである。多摩丘陵から眺める自然の景観もまた格別である。都心に近く、世界の文化芸術が身近なのもすばらしい。私は稲城がすきである。

稲城村の頃(10)

 昭和十九年春、十四歳になった私は東京陸軍少年飛行兵学校に入った。
 校門での別れぎわ、父は十円札と腕時計を私の手に握らせた。生きて戻って来ないだろう我が子へ精一杯のはなむけだったに違いない。
 数え切れないほどなぐられ、ひとり毛布で涙したこともあったが、家に帰りたいと思ったことはなかった。
 戦局は日増しに不利になり、東京空襲がはじまった。昼中、B29の編隊が雨あられの如く爆弾投下をはじめた。
 ある日、このB29に猛然と体当たりを敢行している日本機を見た。次から次と上空から襲いかかるさまは鬼気迫るものがあった。
 この戦士は少年飛行兵の二、三年先輩である。戦い明けて母校を訪ねる若者もいた。目が据って鋭かった。一万米上空は寒気が厳しいこと、体当たりの時は焼け火箸が束になって飛んでくるようであることなど迫力があった。

稲城村の頃(11)

 九十余歳で亡くなられた芦川正吉さんが生前、「大丸児童唱歌」の歌詩と楽譜を下さった。大正6年、純然たる農村稲城村の頃を歌ったものである。今の大丸自治会館の所に、稲城一小の分校があった。“緑の松山過ぎ行けば”とある、是政橋のあたりの多摩川堤は松林が続いていて、道中物演歌の舞台そのものであった。“近き川原に舟浮かべ、夏の熱さをしのぎつつ、投網打ちて鮎釣らば、憂きこと全て消えうせん”日が西山に傾いて、川面が金色に輝いて、黒いシルエットの船頭が投網する風情は、筆舌に尽くし難い郷愁に駈られるのである。“家数全て九十余”都心に忘れ去られたような稲城は何年たっても人口の増減はなかった。小川にはメダカやふな、夏のホタルなど四季の恵みは、春夏秋冬確実に訪れていた。

稲城村の頃(12)

 今年は戦後五十年というが、五十年前までは、稲城も本当に田舎だった。見方によれば自然の宝庫でもあり、それは守るものでもなければ残すものでもなく、ただ無尽蔵に存在していたに過ぎない。
 三沢川で珍しい魚を釣った。銀色のウロコで黒っぽい幅の広いたてじまがあった。今から考えると山女かも知れない。他の魚は見あたらなかった。竪谷戸から流れる川では、ヤツメうなぎや亀に出会ったが、数は少なかった。水清ければ魚住まずは当っている。何といっても多摩川からの用水堀は、たいていの魚、生物は棲息し、量も多かったし、ピチピチしていた。ふな、はや、うなぎ、どじょう、めだか、水すまし、げんごろう、やご、いもり、かわにな、しじみ、水草のおい茂ったあたりを源氏螢の飛ぶさまは幻想的ですらあった。

稲城(特に居酒屋)を巡り巡って(?)集めたという話題が満載

カラオケ 空虚野法師

 カラオケも酒が入って調子が出てくると、うけようと思ってか、珍しい歌詞や題名が登場し、ローカルカラーが溢れる。
 あの有名な♪母はきまし〜た今日も来〜た……の『岸壁の母』は『完璧の母』となり、不完璧の母が唄う。
 『矢切りの渡し』は『矢野口の渡し』、『是政の渡し』に、『麦畑』は『梨畑』に変わってしまう。
 『別れの一本杉』♪とうに二十歳は過ぎたのに〜……が♪とうに五十は過ぎたのに〜と年配のオッサンが怒鳴る。
 『そしてめぐりあい』では♪よせばよかった……と唄うくだりで“ほんとによせばよかった”とまぜっかえす。
 山本リンダの♪困っちゃうなデイトにさそわれて……などにも、色々と替歌があり、とてもふれあい新聞の読者に文章としておみせ出来ないものもある。
 こうして替歌を考えながらグラスを傾けるのも庶民のささやかな楽しみである。

美人 空虚野法師

 「命くれない」という演歌がある。
♪何もいらない〜あなたがいれば〜と歌うと「お金があれば・・・だろう?」という人がいる。「赤いグラス」で♪赤いくちびる〜と歌うとすかさず、「貸しビルか?」とくる。
 じゃまされて怒る人は酒場での流れに乗れない人かも知れないが、人を見て遊び心で言っているようだ。
 カラオケ演歌の画面上の女性は美しい。
 大体和服で、お店のママさん風、そして男を待って一人でチビリチビリ酒を飲んでいる。時にはこぼしたり、徳利を倒したりする。
 あんなに飲んで商売成り立つのかなあとひとごとながら気になる。美しいママなのにまだ客がひとりも入っていないのも不思議だ。
 ♪酒は未練の誘い水、ああひと目逢いたい 雨の降る夜は〜♪は「雨酒場」の一節である。今時珍しい生き方の女性に出会って男どもは満足しているらしい。

酒 空虚野法師

 職人に飲んべえは多いし、結構うまいまずいの能書きは言う。
 一、二級の区別が在った頃、ある棟梁が空いた一級びんに二級酒を一杯に詰めて、会合の席でついで歩いた。職人たちは、ひとくち飲むや『やっぱり一級酒はうまい』…。
 一級も二級もわからず、ただレッテルで飲んでいる人もいるということだ。
 明治・大正時代、酒は高かった。稲城や三鷹あたりの小娘が女中奉公して、たまに、親孝行に酒を買っても二、三合が精一杯だった。
 だから、おとなのご本人は普段焼酎を飲む。肴は、しそや梅干しをカラカラに干して、それを粉にして砂糖をまぶしたものなどで簡素なものであったが、子供たちは、それを欲しがった。甘酸っぱい味がなんとも言えなかった。
 今、おとなが一日働くと酒一斗が買える。給料が高くなったのか、酒が安くなったのか、世の中、飲みやすくなったのは確かなようだ。

年の差 空虚野法師

 八田さんは六十八歳、母親は九十歳。老衰病のため動けなくなった母を連れて病院へ行った。若い医者は、八田さんに向かってこう言った。
 『奥さんですか』
 八田さんは頭にキリマンジャロ、いくらなんでも親子を夫婦を間違えるなんてとんでもない奴だと思って慄然とした。
 と同時に、『オレも九十以上にみられたか』と思うと悲しさは、母親がわが先行きを心配する以上のものだった。
 歌に『あなたまかせの夜だから』というのがある。一節に“年の差なんかは気にしない”とある。この“事件”以来、八田さんは若い人とデュエットするたびに『年の差なんかは気にするよ』とやけくそ気味に歌うようになった。
 しかし、その裏に隠された哀愁があることは誰も知らない。

道順 空虚野法師

 仙台へ行くことになった。都内の抜け出し方を友人のタクシー運転手に聞いた。
「首都高を通って仙台へ行きたいのだけど」
「わけないよ、スーッと行けばいいんだよ」
「スーはいいけど、問題は道順なんだ」
「だからさあ、真っすぐ行けばいいんだよ。わけないよ、東北じゅうかん道で仙台だよ」
 彼はいささか酔っていた。
「間違えて、千葉や大宮へ行っちゃっちゃあ駄目なんだよな」
「どうせ遊びなんだろ、緑を見ながらスーッと行けばいいんだよ、でっかい気持ちでさ、間違ったら宮城でも一周してまた首都高にのれば、七百円だよ、仙台へ行けるよ」
 結局は高速道を左へ左へ行けばなんとかなるというご託宣だった。帰ってから彼に道であった。「うまく行けた?心配してたんだよ」
「オイオイ、それはないだろう」
と法師はいった。

熱い飯には 空虚野法師

 板前がいった。「先輩がさあ、飯に醤油かけて食っているんだよ。俺思わず、『うまいか』って聞いちゃったよ。そしたら『俺これが好きなんだ』といったね。他の店にかわったら別の板さんが、わさび醤油で食ってたんだ。これはうまいだろうと思ったね。だってねたがないだけの寿司だからね」
「そういえばそうだ。俺は熱い飯にバターをのせて、醤油を少したらして、かきまぜて食うのが好きだなあ」と客の一人がいったらみんながあいづちをうった。「飯に酒をかけて食うと、食いながら酔えるんでいいよ」と板前がいうと別の客が「いや、ビールをかけて食うのがうまい、とにかく飯がみんな立っちゃうんだから」と経験を披露した。いやウーロンはまずい、梅酒はうまい、ブラックコーヒーがいいと熱い飯に何をかけるかが論争になった。まったく世間は広く飯の食い方一つでも変わった体験者が多いものだ。

忍法金遁の術 空虚野法師

 結構長い距離を四、五人でタクシーに乗る機会はあるものだ。
 其のとき、とにかく席はおりやすい所に乗る。例えば是政橋なら、やや手前から気持ち悪くなる。迫真の演技が必要である。ややオーバー気味がいい。「ウー気持ち悪い」と第一声、渋滞もプラス思考だ。真面目な友なら、「オイ大丈夫か」と聞いてくる。「ウン、ちょっと飲み過ぎたらしい」「もう稲城だ、あと少しの辛抱だ」と励まされる。
 橋を渡りきる頃我慢出来ない風情で、「ちょっと、風に当たって帰るから」と、友人の勧めを断り一人で車をおりる。ゆっくり多摩川ぞいに歩きだす。もうタクシー代の心配はない。うまく行ったと思うと自然と顔が綻ぶ。隠しておいた自転車で口笛を吹きながら帰る。気が緩んでうっかり渋滞中の仲間のタクシーを追い越してしまったりしないことだ。
「おい、あいつじゃねえか」と気づかれてしまうこともあるから要注意。

噂 空虚野法師

 「ほんと人の噂って言うか悪口っていうか面白いんだよな、俺大好きさ」と変なところで正直な人がいる。またそれに輪をかけて針小棒大に言う御仁もいる。「だって普通に言ったって面白くないじゃん」成る程。
 飲み屋さんで男女仲良く話をしていると、二人は怪しい、一緒に出て行くと二人はデキていると噂される。図々しい人が
「あんた達デキてんだろう、正直にいいなよ、誰にも言わないからさア」
「何をいってんだ、関係ないよ」と否定する。
「人を好きになることはいいことと思うよ、好きなら好きって言えばいいのに」
「そんなに言うんなら彼女に聞いてみればいいじゃないか」とむきになる。
「そうかデキていないのか、いやあ俺はてっきりデキてるとばっかり思ってたんだ、残念だなあ」
 その後の噂
「あれだけ強く否定するところを見るとやっぱり二人はデキてるんだ」

ギャンブル 空虚野法師

 ギャンブルにのめり込む人は案外多い。
 知人は、確度の高い情報を得た。1、2、3の馬の組合せで『絶対くる』と言うのだ。彼が二百万円、情報屋が百万円を調達し、1−2、1−3、2−3の連複を百万円ずつ買う予定を立てた。
 しかし、知人は『待てよ、一点買いなら配当が三倍だ。よし、一点買いに決めた。』
 問題は確度だ。一番人気は2−3であった。彼は三百万円を2−3一点に絞った。昔の馬券はロール状に巻かれていた。
 それを胴巻きに押し込むと腹は妊婦のように膨らんだ。
 情報は確かだった。ただし、三点買いでのことであり、一番人気は見事に外れた。結果は1−2であった。
 三百万円で何千万円かの夢は一瞬にして消え去った。
 涙は出なかったが、目はうつろだった。
 胴巻きから馬券の“バームクーヘン”を取り出すとドサリと傍らのゴミ箱に放り込んだ。これからの返済が脳裏をかすめた。居酒屋をやりながら、彼は一生一度の大挑戦談を語り終えた。

男と女 空虚野法師

 マスコミがよく、セクハラ事件を報じる。一般的には電車中が多いようだ。
 たまりかねたJR中央線が、根絶を期して女性専用車両を繋いだ。これで問題解決、喜んでもらえるとおもったのに、1年足らずで中止になったという。
 理由は、“とにかく女性が専用車に乗らない”ということだ。これはわれわれ男には解せない複雑な現象だ。
 結局、専用車は廃止になったのだが、男共の類推がいろいろ出る。
『当たり前じゃないか。何のために女性は化粧をするんだ。男に見てもらいたいのだ。』
『さわられると職場で話して、もてる証にするかも』
『女だって、いい男探して楽しんでいる人もいるんじゃない?』
『女性同士は結構厳しいんだ。アレコレ批評されるのも疲れるんじゃない?』
 なんかピンとこない……本当の理由はどこにあるんだァ!